敵の心を動かしたサムライ魂とは? 太平洋戦争で、サイパン島の占領を目前にした米軍を最後まで翻弄した日本兵がいる。16カ月間、たった47人の仲間とともに戦って生き延び、多くの民間人を守った大場栄大尉。1982年、その実話を日本で出版したのは、当時の敵、元米軍の海兵隊員だった。殺す。生きる。守る。死ぬ。絶望的状況での選択肢。大場大尉は自分の使命を「1人でも多くの米兵を殺すこと」から「1人でも多くの民間人を守ること」に変えた。自然や地形を味方にして敵をあざむく彼を、米軍は「フォックス」と呼び、その首に賞金を掛ける。そこにいた日米の兵士が生き抜いたからこそ語り継がれる物語とは!? 竹野内豊、3年ぶりの主演作品。
映画「太平洋の奇跡」の中で、寡黙で、部下からも民間人からも人望が厚い大場栄大尉を演じた竹野内豊さん。
インタビューの前日に行われた『太平洋の奇跡』ジャパン・プレミアでは、サプライズゲストとして、実際に大場隊の一員として戦い、生き抜いた47人の1人、新倉幸雄(あらくら・ゆきお)さん(87)が登壇。新倉さんを前に、「気持ちを抑えるのに一生懸命でした」と、竹野内さんはゆっくり、一言ひとことを噛みしめながら話した。
「新倉さんに、“こんなに素晴らしい映画を作っていただきありがとうございました”と言われてしまって・・・。嬉しいのに、言葉に詰まってしまいました。戦争をまったく知らない者たちが作った戦争映画を観て、あんな激戦の中で生き抜いてきた方に誉めていただけるなんて、それはもう感無量です。けど・・・感謝しなくてはいけないのは我々なんですよね」
大場栄大尉(1913-1992)がサイパン島で戦ったのは、大場氏が31〜32歳の頃。その若さで多くの部下と民間人を抱え、16カ月間、常に決断を迫られながら、その苛酷な状況をどうやって過ごしたのか。私たちにとって戦争映画はもちろん疑似体験に過ぎないが、胸が締め付けられる。
竹野内さんは、「この映画のメッセージは、あえて僕らが言うよりも、観た人に、どんな些細なことでもいいから、感じ取ってもらいたいです」と言う。
「私自身は、この映画に出て、そして作品を観て、とても勉強になりました。毎日大場さんたちと同じように軍服と重たい装具をつけて撮影に臨むうちに、“当時の人たちのことや戦争を忘れてはいけない”と、頭では当たり前のようにわかっていたことすら、薄っぺらだったと痛感しました。これだけの思いを毎日してきたのか。しかも自分たちは演じていただけで、実際に命を狙われたわけじゃない。彼らは生きて帰れるなんて思ってなかったと思います」
「でも、オーバーな言い方ではなく、撮影中、僕らはみんな役者でありながらも、精神的にはすごく近いところまで研ぎ澄まされていた感じがしました。自分たちが忘れられてしまうなんて・・・忘れてほしくない!と思いました」
今年1月に40歳の誕生日を迎えた竹野内さんだが、年齢の区切りについては「夢中になっていることがあると、いくつになっても基本は変わらないです」と話した。
「僕にとっては、とりあえずは“仕事”ですね。20代は、がむしゃらに、勢いまかせでやってきて、30代では“勢いだけじゃ通用しねぇぞ”っていうのを社会から教えられ(笑)。教えられたというか自分から自然と気が付いた感じですかね。それで、自分自身の胸に手を当てる時間も30代はありました。そういうことがわかった40代は、もっと力を抜いて、いろんなことにチャレンジする“気持ちの余裕”が欲しいですね」
竹野内豊PROFILE
1971年、東京都出身。モデルを経て1994年、ドラマデビュー。「星の金貨」「ロング バケーション」「ビーチボーイズ」などトレンディドラマで人気に。映画『冷静と情熱のあいだ』で日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。今年5月には映画『大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇』の公開を控えている
1944年、太平洋戦争末期。日本が統治していたサイパン島を死守するのが、大場栄大尉率いる日本陸軍43師団守備隊の使命。しかし、圧倒的な兵器と兵力でサイパンの占領宣言を行うアメリカ軍。日本軍の守備隊幹部は玉砕命令を発令し自決、大場大尉の戦友・部下たちも次々と戦死を遂げる。ある日、負傷兵の息の根を止めようとアメリカ兵が見回る中、大場大尉はとっさに死体の中で死んだふりをして、まだ「生」に執着する自分に気付く・・・。
応募受付は終了しました
© 2011「太平洋の奇跡」製作委員会
取材・文/安田佑子 撮影/キムラミハル
PR