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大阪で万博博覧会が開催されたのは、1970年、私は小学6年生だった。参加国は7カ国。中でも当時世界のNO.1の座を競っていたアメリカとソ連は、もちろん万博でも国の総力を挙げて自国の力を誇示し、そのおかげで大阪万博には、SFの本の中でしか見たことのなかった宇宙船やら、あの「月の石」やらが、惜しげもなく登場することになったのだ。
一方、日本も高度経済成長の真っただ中、戦後の廃墟の中からここまで復興した国は、どの国を見てもどの歴史を見ても、日本以外にないという。それほどあのころの日本人は頑張ってて、その6年前の東京オリンピックといい、この万博といい、とにかく日本中が一丸となって(細かくいえば、そうじゃないとこもあるけど、とにかくムード上は)開いたお祭りだったのだ。例えていうなら親戚中に迷惑かけていっぺん破産した一家が、もう一度力を合わせて持ち直し、ドキドキしながら親戚みんなを読んで大宴会を開いた、みたいな感じかな〜。
とにかく日本中が万博に興奮していた。もちろん私たち子供も。「どうも世界が大阪に集まるらしい。世界中が日本に来たがってるらしい。なんか今、すごいことが起きてるらしい万博では!」そういう期待感いっぱいだったよ。何せあの岡本太郎の太陽の塔だもん。あれは今考えると、大阪万博に多大な影響を与えた芸術作品だったと思う。まさにシンボルという名にふさわしい存在感だった。
「いったい自分は万博に行けるのか? 親は連れていってくれるのか? うちにはそういう経済力があるのか? 大阪って遠いしなぁー」。もちろん地域差はある。大阪の子供は「何回行けるか、どれだけおもろいとこ発見できるかに勝負かけてた」とラサール石井さんがいってた。赤井英和さんなんて「大阪の小学生だけが知ってる金網の穴をくぐってな、なんべんもただで入ったでー」と、すでにそういうワルガキもいたらしい。名古屋の子は「何回行ったか、それで金持ちかどうか決まったもんだがね」といってた。これが東北山形になると「いやぁ〜、遠いべなぁ〜、ずいぶん並ぶんだべ〜」仕方がない。ホントに遠いんだし。
私は北陸富山の生まれ。ともに同級生だからもちろん万博体験者。さぁ、ふたりの体験は次回続きをお楽しみに〜!
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