和歌山県の熊野古道_ローカリズム~編集長コラム【連載】

更新日:2021/04/20

和歌山県 熊野古道

世界が明るくなるにつれ わたしたちが少しずつ 見失ったもの

世界にたったふたつしかない「道」の世界遺産、熊野古道

 世界で1100以上を数え、日本は23の認定を受けている世界遺産の中で、「道」が遺産として存在している例はたったのふたつしかありません。
 ひとつがフランスとスペインにまたがる「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」。そしてもうひとつが「紀伊山地の霊場と参詣道」です。
 その道は和歌山、奈良、三重の3県にまたがっています。例えば和歌山を車で走っていると、あちこちの国道脇に「熊野古道」と書かれた標識がひっそりとあって、その道の脇の山中に、今でもかつての巡礼路が残っています。
 平安時代、熊野は「現世の浄土」と呼ばれ、浄土信仰の地として崇められました。京都の南方、紀伊半島にいるとされていた神々たちを詣でるために、どのような身分の人間も等しく徒歩で、苦行の道を熊野三山へと歩いたのです。
 僕は和歌山が好きで、何度もこの道を歩いています。歩いていると静けさの中でリズムが生まれ、すると木の葉がこすれる音や、鳥の鳴き声、風が通り抜ける音、さまざまな小さな「音」たちが耳に入ってきます。そこには人間の「声」はありません。

 そして森の深くに入っていくにつれて、その音さえも消え、ただただ自分が地面を踏みしめる足音が、静かな通底音のように頭の中に響くようになってきます。そうなってくると、ニュースも誰かの日常の拡散も、怒りや悲しみの感情も頭から遠ざかり、自分を俯瞰で眺めているような気分になります。
 森は深く、届く光は限定的になり、気付けば自分がただ歩いています。あまり安っぽい言葉を使いたくはありませんが、そこには自分以外のなにかもうひとつ大きなものの存在を感じます。それは自然かもしれないし、もしかしたら神様かもしれないし、あるいは結局、自分自身かもしれない。
 僕は特別な信仰を持っているわけはありません。それなのに都合よく神様に祈ったり、不運を運命のせいにしてみたり、とても身勝手な人間です。でも、だからこそ感じられることがあります。例えばわたしたちが神様から遠くなってしまったように感じるのは、世界が「明るすぎる」からかもしれない。神様を思う時間が少なくなってしまったのは、それ以外の情報が「多すぎる」のかもしれない。そういうことを。
 あなたがもし、いろいろなことが「すぎる」と思ったら、熊野を歩いてみてください。神様のことはよく知りませんが、自分が体験したことなので、熊野のすばらしさはあなたに伝えたいと思いました。できれば自分の言葉で。

Illustration/YOSHIE KAKIMOTO
※メトロミニッツ2021年5月号より転載 

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