地続きの日常を電車は走る
車窓を流れる景色は心の中に
なぜか静かに流れ込む
電車の中から眺める
自分のいる世界のこと
目が覚めると朝がきていて、車窓には朝日を浴びた田んぼの風景が広がっていました。寝ぼけたまま外を眺めていると、手前の田んぼの青い稲は早く過ぎ、遠くの山はゆっくりと後ろに流れていきます。ぐっすりと眠っているあいだに電車はずいぶん遠くまで来ているようでした。車内のアナウンスがもうすぐ岐阜県の大垣駅に到着すると教えてくれます。固いシートでこわばった身体をほぐすように、僕は大きく伸びをしました。
「青春18きっぷ」という切符は5日間分のフリー切符で、当時は1万円くらいでそれを買うことができました(今はいくらなんだろう)。あの頃は東京駅を深夜0時前に発車する「ムーンライトながら」という夜行の普通列車があって、僕は18きっぷを買うといつもその電車に乗ってほとんどあてのない旅をしていました。その電車は0時を少し過ぎたところで横浜駅を通過するので、東京駅の改札は横浜までの切符で通り、0時からその先は1枚目の切符の使用とすると、1日目にずいぶん遠くまで行けたのです。車窓と言うと、最初にムーンライトながらの車内で目覚めたあの朝のことを思い出します。もうずいぶんと前のことですが、お金はなくて、とにかく時間だけがあった時代の話です。
いちばん好きな小説はなにかと聞かれたら、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』と答えます。なかでも銀河鉄道に乗り込んだジョバンニとカムパネルラが車窓の向こうの銀河に光るりんどうの花の群生を見つけたときのシーンは、僕が文章を書くときの大きなモチベーションであり、ずっとお手本にしているものです。ジョバンニが車窓に見た一面のりんどうが、どうしてあれほど印象的なのか考えたとき、それがそこに留まれないものであり、流れていくものであるということ、そしてかすかに記憶として残ることはできるけど、手に入れることができないという決まりであること…、花がそういうものの象徴として描かれているからなのかもと考えます。りんどうの花は昔から「旅人の花」と言われていて、おそらくそこに賢治が比喩を込めているということも含めて、宮沢賢治が東北の自然に抱いていたどこか信仰に近い眼差しが、りんどうの青と紫にすべて込められているような気がします。
車窓と聞いて僕が思い出すのはそのふたつです。動いている電車の窓から外を見ていると、自分の輪郭が世界の側へ少しだけほどけて溶けていくような瞬間があります。どこへ向かっているのかも、どこから来たのかも、そのときだけは同じ速度で世界に流されていく。どこかはわからないけど、旅という言葉の外側に別の行き先があるような気がするのです。
街のあちこちに沈丁花の花の匂いがしています。長かった冬が終わって、厚いコートを着る機会もめっきり減りました。春は旅に出るのにうってつけの季節です。旅と言うと、目的地や、そこでなにをするか?に主眼が置かれがちですが(それはあたり前ですね)、その過程に目を向けると、旅はもっとぐんと膨らんでいきます。車窓を流れる景色は、誰かの暮らす日常の風景です。あなたはそこを通り過ぎていますが、そこには定点的な暮らしの営みが必ずあるものです。そして通過している場所にも、もしかしたらあなたが行くべき場所や、あなたを待っている人がいるかもしれない。そんなことを考えるのも、たまにはいいものです。
もしあなたの毎日が目的とその手段のためにだけ使われていると感じたら、もしくはうまく目的が見つからないと嘆いているとしたら、ぼんやり窓の外を眺める旅をしてみてはいかがでしょうか? とはいえ遠くに行くことだけが旅ではありません。それは心の持ちようひとつで変わります。遠くまで行ってもなにも見ていない人もいれば、どこに行かずとも遠くを見ているように感じられる人もいます。なにをもって旅と言うかは人それぞれですが、今月のメトロミニッツが、あなたが旅をするきっかけにもしもなれたとしたら、本としてこんなに嬉しいことはないんじゃないかなと思います。
※メトロミニッツ2026年3月号より転載






