産業革命以来の大革命
AIの大きな渦の中で
僕らは今どうするべきか
誰かを応援することで
思い出す人間の美しさ
夏の甲子園が終わりました。僕の地元でもある群馬県の健大高崎高校のがんばりは見事で、僕は彼らの応援にすっかり熱中し、久しぶりに甲子園にくぎ付けになった夏でした。
というのも、僕も小学1年から大学4年まで割とまじめに野球部で野球に打ち込み、特に高校時代は群馬県で甲子園をめざす球児でした。実家は埼玉にあったのですが、親に頼んで群馬の私立高校に越県入学をさせてもらい、僕は毎日県をまたいで高崎まで通っていました。当時その高校が野球の名門校として知られていたこともありますが、なにより群馬県は高校数が約60校で、埼玉県は200校近くあったこともその高校に行く決め手になりました。甲子園までの距離ですね。それから自分の中学から通う人のあまりいない違う学区に飛び込むことで、知らない場所に行きたかったというのもあります。結果的に1学年上の先輩は春の選抜に、下の学年は夏の甲子園に出場し、僕たちの代は谷間の世代となってしまい、甲子園出場はかないませんでした。
僕が入学した初日に感じたのは「絶望」でした。野球部には群馬県だけでなく近隣県からいい選手が推薦や特待生として集められ、一般入試で入学した僕とはスキルも持ち合わせている自信もまったく別モノでした。そこに、ある意味では理不尽な先輩との関係性が加わり、ハードな練習は休みなく毎日続きました。野球をしている以外は食べるか寝るか、みたいな日々。今もう一度あの3年間をやり直せと言われたら躊躇してしまいますが、結果的に僕はあの絶望と敗北の3年間で、その後の人生において指針となるようなことを身体で学ぶことができたように思います。言葉にするとそれは「勝つことと同じくらい大切な、美しく負けることの意味と価値」のようなものでした。高校野球において「勝ち」を名乗りながら終われるのは1校だけで、極論すればそれ以外の全国すべての高校は敗者です。その中にもレギュラー争いがあり、怪我があり、運や縁やその日の調子や気分、情熱と葛藤…。
「努力は報われる」なんていう一般論だけでは到底語りきれないほど、スポーツの世界にはさまざまなものが入り混じっています。そこで必要なのは、たぶん勝つことよりも負けても誇りを失わず、美しき敗者で在れるかどうか? そしてそれはスポーツの世界だけではありません。なぜなら僕らは負け続ける。そしてその負け方にこそ、その人の品格や品位がいちばん現れる。逆説的でもありますが、勝者の中にも敗者はいるし、敗者が勝っていることもたくさんある。究極的には世界に「勝者なんていないのか」とさえ感じます。
僕の会社の仲間が、いま大きな戦いを前に努力を続けています。齋藤彰太くん。32年ぶりに日本で開催されるアジア競技大会に、カヌー・スラロームという競技で日本代表として頂点に挑もうとしています。「カヌー・スラローム」は、急流に設置されたゲートを瞬時の判断力で通過し、タイムを競う競技。そのまっすぐな眼は、また僕に忘れていたなにかを思い出させてくれます。夏はまだ終わっていないようです。
AIが爆発的に普及し、仕事の内容が変わってきた実感があります。なにも考えなくても、AIがすぐに答えを出してくれるこの便利な状況は、僕らが考えている以上に革命です。僕も仕事において便利にそれを使えるようになってきました。
でも、少しの恐怖を感じるのも事実です。それは、これだけなんでもしてくれる疲れ知らずの機械に、僕の人生が少しずつ変えられていくような感覚であり、難しいけど仕事のおもしろい所を奪われているような感じというか…。だからこそ僕は「必死」になりたいし、応援したい。その向こうにある人の努力や痛みや葛藤を想像する心をいつまでも忘れないようにしたい。そんなふうに思います。
※メトロミニッツ2026年10月号より転載






